今日は終戦の日。
昭和20年8月15日、日本はポツダム宣言の受諾により無条件降伏し、大東亜戦争は終結しました。
今日のお話は、ネットで見つけたお話しを添付しました。
少し長くなるので、興味の無い方はスルーして下さい。
8月15日の特攻命令
作戦の決行を控えた昭和20(1945)年8月15日、終戦によりすべては終わったはずであった。
しかし第三航空艦隊長官の寺岡謹平中将はこの日、指揮下の残存航空機すべてに対し、関東沖の米機動部隊に対する特攻を命じた。
この日、木更津から出撃した神風特別攻撃隊第七御盾隊第四次流星隊の「流星」艦爆2機のうち1機を操縦していた小瀬本國雄飛行兵曹長によれば、寺岡長官は、「攻撃目標は、房総沖の敵機動部隊である。諸氏の必中を祈る」と訓示し、「君たちだけを死なせはしない、私も必ず後から行く」と明言した。
小瀬本ら2機の「流星」艦爆が800キロ爆弾を抱いて発進したのは午前10時50分、終戦の1時間10分前であった。このことを小瀬本ら特攻隊員は知らなかった。
また寺岡長官は、指揮下の全飛行機に対し、15日の午前中に特攻することを命じており、護衛の零戦にも、戻ってきたら爆装して再度突っ込むよう命じていた。
実際、15日の午後に関東沖の敵機動部隊攻撃に向かって、撃墜された機もある。
零式二一型のレプリカ機
終戦30分前の特攻出撃
小瀬本の流星艦爆は離陸後、両脚が完全に納まらない故障でやむなく引き返したのだが、代わりの機で出撃しようと着陸すると、そこでは間もなく終戦の玉音放送が流れた。
茨城県の百里基地ではやや早く、10時15分から神風特別攻撃隊第四御盾隊の「彗星」艦爆12機が発進を始めていた。
すでに大編隊での進撃はなく、数機ずつのさみだれ式進撃であったために、最後の1機が飛び立ったのは、午前11時30分ころ、終戦のわずか30分前であった。
三重の鈴鹿基地では、戦闘301飛行隊に出撃命令が出ていた。
基地にはちょうど報道班が来ていて、最後の出撃を撮影している。
白浜芳次郎飛曹長が愛機に向かうと、零戦の横に250キロ爆弾が置いてあった。
まず制空隊として出撃し、特攻隊の進撃を護衛した後に引き返して、今度は自分が爆装で突入するのである。エンジンを回し、発進の合図を待ったが、なかなか命令がない。
ついに正午過ぎ、発進中止が決まった。白浜飛曹長は、初めて終戦を知ったのであった。
こうして、発進が遅れて正午を過ぎた者は、茫然と飛び去った僚機の行方を思った。
戦争は終わったというが、飛んで行った彼等は今や敵艦隊に突入しようとしているのである。
この日8月15日、米機動部隊のハルゼー大将は房総沖の戦艦「ミズーリ」艦上にいた。
トルーマン大統領からの終戦の知らせを受けたハルゼーは、午前11時に戦闘旗を降ろし、艦隊に勝利を伝えた。
ところが、レーダーは相変わらず日本の体当たり機が飛んで来るのを発見していた。
正午を挟んで、日本中が天皇陛下の玉音放送を聴いているころ、何も知らない特攻機は、勝利の歓声をあげている米艦隊の周りで次々に撃墜されていたのである。
終戦前日の8月14日、ポツダム宣言受諾は決定されていたので、大本営は大海令47号をもって、「何分の令あるまで対米英蘇支積極進攻作戦は之を見合わすべし」との命令を海軍総隊、及び連合艦隊に出していたのである。
空母赤城
特攻指揮官たちの最期
終戦の日の昭和20(1945)年8月15日、大分飛行場に司令部を置いていた宇垣纏第五航空艦隊司令長官は、正午のラジオで玉音放送を聴き、放送終了後、特攻機に乗り込み沖縄に突入した。
このとき部下は可動機である「彗星」爆撃機を11機すべて用意し、22名が長官に従って発進した。
出撃した11機のうち、3機は途中不時着し、4機が突入電を発信し、残り4機は連絡のないまま消息を絶った。
宇垣長官の突入は、残された者に複雑な感情を残した。
特攻を送る時、常に「お前たちだけは死なせない。最後の1機で私も後からゆく」と訓示していた言葉を守ったことは、さすがといわせるものがあったが、無意味な道連れを作ったことには非難があった。
長官の出撃を見送った中にさえ、「1人で死ね!」と叫ぶ声があった。
海軍総隊の小沢長官も、あからさまに不快な表情でこの自爆飛行を非難した。
こうして特攻攻撃の最大の実施部隊であった第五航空艦隊に終戦が訪れたのであった。
その翌日には大西瀧治郎中将(当時、軍令部次長)が割腹自決した。彼の遺書には次のように記されていた。
「特攻隊の英霊に申す。善く戦いたり、深謝す。最後の勝利を信じつつ、肉弾として散花せり。然れ共、其の信念は遂に達成し得ざるに至れり、吾死を以って旧部下の英霊と其の遺族に謝せんとす。
次に一般青壮年に告ぐ。我が死にして軽挙は利敵行為なるを思い、聖旨に副い奉り、自重忍苦するの誡ともならば幸なり。隠忍するとも、日本人たるの矜持を失う勿れ。諸士は国の宝なり、平時に処し猶お克く特攻精神を堅持し、日本民族の福祉と世界人類の和平の為最善を尽せよ」と。
「最後の戦果」をいかに評価するか
日本海軍にとって、最後の組織的な艦隊戦闘は昭和20(1945)年4月の第二艦隊水上特攻であり、その後は艦艇同士の戦闘はなかったが、終戦間際に橋本以行艦長の指揮する伊号第58潜水艦が、米海軍の巡洋艦「インディアナポリス」を撃沈したのが最後の戦果となった。
7月18日、伊58潜水艦は豊後水道を南下、回天作戦のため一路フィリピン沖を目指していた。同艦は昭和19(1944)年12月の金剛隊以来3度目の出撃で、回天戦のベテラン潜水艦であった。
7月28日、伊58潜は米駆逐艦を発見、回天2基を発進させたが、戦果は確認できなかった。伊58潜はさらに南下を続け、翌29日深夜、浮上直後に航海長が「艦影らしきもの左90度」と叫んだ。ただちに潜行した伊58潜は、魚雷戦、回天戦の準備をし、沈黙のうちに敵影を待ち受けた。
艦影は巡洋艦「インディアナポリス」であった。7月26日に米本土から運んできた原爆をテニアン島に降ろしたばかりであり、この原爆が10日後に広島に、さらに3日後に長崎に投下された原爆だった。任務を終えた「インディアナポリス」は、ただちにテニアンを出港、グアムに向かった。ところが、この航海予定の電報は、いくつかの錯誤によってどこにも届かなかった。
翌日、グアムに着いた同艦は、28日にグアムを出港、フィリピンのレイテに向かった。出港前の情報では、付近に日本の潜水艦が行動している恐れがあったので、日中はジグザグ航行を行っていたが、日没後は直進で進んでいた。
7月29日の深夜、「インディアナポリス」はグアムとレイテの間に達していた。そして、日付は30日に変わっていた。零時少し前、潜望鏡に映る艦影を確認した伊58潜の橋本艦長は、6本の魚雷を発射した。時計は零時を回る。「インディアナポリス」の右舷前方に3本の巨大な水柱が立ち上った。同艦は十数分であっけなく姿を消し、SOSの発信さえも間に合わなかった。
乗員約1200名のうち約300名が沈没時に戦死し、残る約900名は8月2日まで哨戒機に発見されず、海上にボートも何もなく漂流していた。その後8月7日の救助完了までの間に多くが遭難し、結局300名程度が救助されたにすぎなかった。
日本国内では、この撃沈は日本海軍潜水艦のあげた最後の金星としてのみ有名である。しかし、米国では、「インディアナポリス」の遭難は海軍最大の悲劇として戦後に大きな問題となった。1隻の巡洋艦が、ほとんど敵が存在しないと思われていた海面で撃沈され、数々の不運が重なって多くの生命が失われた。この事件の責任はいったいだれにあるのか?
この「インディアナポリス」の事件は、終戦直後のアメリカ海軍と国民の間に重大な関心を呼び起こし、そのニュースは争って読まれた。多くのアメリカ人がこの事件について海軍内部に責任者が存在し、処罰されなければならないと考え、生き残った艦長は軍法会議にかけられ有罪とされた。大戦中にアメリカ海軍が喪失した軍艦の艦長が軍法会議にかけられたケースは他にない。
この異例の裁判が引き起こされた最大の理由は、「将兵が死ななくてもよい場所で無駄に命を落としたのではないか?」ということにあった。この問題意識こそ、日米海軍、いや、日米両国の国家と軍隊と兵士の関係における最大の相違点だったのである。
アメリカの国民は、義務として兵役につき、戦争に参加している。同時にすべての兵士は国家に対して、生命の安全に関して最善の努力を払うことを要求する権利を持っている。もし1人の兵士が戦死すれば、その遺族はその兵士の死が“意義ある死”であったかどうか(すなわち、無意味な作戦や無能な指揮による死ではなかったか、また十分な生活と最善の兵器が与えられていたか)を知る権利を持っていた。それがアメリカという国家と国民の契約だったのである。
「インディアナポリス」の場合を例にとると、死亡した乗員の遺族が太平洋艦隊司令長官のニミッツ提督に対し、責任者の早急な追及を行うように要求する手紙を送っている。これに対しニミッツは、ていねいな返事を書いている。さらに事件調査についても「われわれは、自分たちの間違いを隠そうとは考えていない」と言明している。
これは何ら特別な例ではなく、このような手紙は戦時中に軍の指揮者や、大統領がたびたび受け取ったものだった。
また、海軍の内部でも同じように契約があった。「義務を果たした者には名誉を、果たさなかった者には罰を」である。すべての失敗について責任者がきびしく失態や怠慢を追及され、それぞれ処分を受けたものである。
責任者に直接処分が下されない日本の体質
戦いの中で得られた教訓、戦訓には兵士の血の代償が支払われている。そして、その教訓の活用は、次の戦いにおける血の代償の量を左右する。もし真剣に戦訓を得ようとすれば、それは冷厳な責任の追及となるのはやむをえない。法廷で戦友のミスを追及することはアメリカ人にとっても、もちろん愉快なことではない。しかし今後、同じ過誤が繰り返されないために必要不可欠なこととされたのだ。
ひるがえって、日本海軍のケースはどうであったろうか?
昭和17(1942)年6月のミッドウェー海戦に敗れた第一航空艦隊の参謀長草鹿龍之介は、山本五十六司令長官に対し「大失策を演じおめおめ生きて帰れる身に非ざるも、只復讐の一念に駆られて生還せる次第なれば、如何か復讐出来る様取計って戴き度」(宇垣纏『戦藻録』より)と、ほとんど個人の感情レベルの懇願を行っている。そして山本長官も敗北の責任などまったく念頭になく「承知した」と答えている。さらに海戦の敗因については後に、形ばかりの戦訓委員会が設置されたが、その結果は極秘とされていっさい公開されなかった。利用されることのない戦訓などに、いったい何の意義があるのだろうか。
日本海軍の指揮官や高級幕僚が戦闘の重要な局面で重大な錯誤や失敗をおかし、以後の戦局をきわめて不利なものとしたケースはミッドウェー作戦にとどまらず、海軍甲事件・海軍乙事件・台湾沖航空戦・レイテ沖海戦での栗田艦隊の反転など、枚挙にいとまがない。にもかかわらず、それらのケースの責任者で直接処分された者がいないということは、いったい何を意味するのだろうか。
太平洋戦争における日本軍の反省を記した書籍や雑誌を見ると、個々の戦闘の戦術的巧拙についての評価、あるいは戦略的な総論に偏したもの、または日本人の国民性、というような茫漠としたものなどが多く、将兵の義務、責任、そして権利といったものについての考察は、ほとんどない。
しかし、軍隊の本体が人間の集団である以上、将兵の一人の人間としての権利と義務に基づく立場の確立こそ、精強な軍隊の第一歩であると考えるべきであり、日本軍についてもこの観点からの研究がさらに必要と思われる。
この文章を読んで、どう思うかは個人個人で様々な考えや意見があると思います。
また、昭和20年8月6日には広島、9日には長崎に原子爆弾が投下され多くの人が亡くなり、今も被爆により病気を発症し苦しんでいる人がおられます。
そんな中で、今の日本という国が存在している意味を、少しの時間でも良いと思うので、考える事も大事な事だと思います。
今日の一日が、皆さんにとりまして、最良の日となりますように。